先日購入した「翻訳というおしごと」で筆者の実川元子さんが、身の引き締まる思いで読んだと紹介していた「翻訳とは何か」を購入しました。筆者は2011年に他界した翻訳家山岡洋一さんです。

本書は6章からなっていて、
- 第1章 翻訳とは何か
- 第2章 歴史のなかの翻訳家
- 第3章 翻訳の技術
- 第4章 翻訳の市場
- 第5章 翻訳者への道
- 第6章 職業としての翻訳
と展開していきます。
著者は産業翻訳も手掛けていたようですが、本書はほぼ出版翻訳を前提として記述されています。産業翻訳については時折触れる程度です。映像翻訳については全く言及していません。
全体的な印象としては、世の中の翻訳に対する誤解・認識不足及び2001年初版当時の翻訳業界の在り方に対する危機感から執筆されていると感じました。第1章から第3章で翻訳の本質・歴史についての事実を説明し、第4章から第6章にかけて翻訳業界の現状を憂いながら、どうあるべきかを論じています。
筆者の翻訳及びその周辺領域に対する知識は非常に深く、翻訳家というより文筆家という印象です。ある意味それもそのはずで、筆者は翻訳家の本質は日本語による物書きだと言っています。先週読んだ「翻訳というおしごと」は翻訳実務家が敷居を低くして翻訳について語ったという印象を持ちましたが、こちらは翻訳実務家というより文筆家が生真面目にかつ誇り高く翻訳について論じているのです。
特に第1章と第2章では、筆者の翻訳に関する深い教養を知ることができます。第1章では、ヘーゲルの「精神の現象学」の二名の翻訳者による日本語への翻訳の比較をしています。その一つが最近は滅多にお目にかかれないようですが、”原書を読むための翻訳”です。所謂直訳に近い翻訳形態を意図的にとるのです。つまり、翻訳を読めば原書の文章構造が把握できるのです。その意図を知らずにこの形態の翻訳に触れると、極めて読みにくく(日本語としてなってない)、レベルの低い翻訳と思ってしまいます。でもそれは、原書と一緒に読むという目的を理解していない、こちらの無知なのです。
第2章では、歴史上重要な翻訳の功績を残した人物を4名紹介しています。その内2名は、私も知っていました。三蔵法師としてお馴染みの玄奘と幕末の志士大村益次郎(村田蔵六)です。私も知っている位ですから、世間一般には翻訳家として知られたわけではありません。二人とも、外国の知見を自国に取り入れるため、手段として書物の翻訳を手掛けたのです。玄奘はインドから中国へ仏教を、村田蔵六はオランダから日本に欧州の文明を。
ここからは、本書で印象に残った個所をいくつかランダムに紹介していきたいと思います。
翻訳者のかなりの部分、そして翻訳学習者の大部分は、「得意な英語を活かせる仕事」として翻訳に興味をもつようになったのだという。なぜ、英語が得意だと考えているかというと、たいていは学校で英語の成績が良かったからだ。なぜ、英語の成績がよかったかというと、(中略)原語と訳語の一対一対応を素直に受け入れたからであり、英文和訳式の構文に疑問をもたなかったからだ。したがって、翻訳者のかなりの部分、翻訳学習者の大部分にとって、英文和訳調こそが自然なのである。
53ページ
翻訳と英文和訳に違いについて論じている部分です。一応、私も学校(特に中学)では英語の成績よかったです。私の英語力の基礎も一対一の英文和訳です。そこは直に認めます。
外国語で書かれた本や記事を読むとき、外国語として読んでいるようでは翻訳はまったくできない。外国語という意識がなくなって、内容を読む段階に達していることが、翻訳者になるための前提条件である。
131ページ
翻訳は外国語を読む技術が必要ですが、そのレベル感についての記載です。レベル高いですね。この箇所に行きつくまでの記述で、外語語の本を最低100冊読んでいる経験が必要ともありました。私も英語の本を読んでいますが、100冊には全然行ってません。
翻訳の場合なら、何を書くかは原著者が考えてくれる。(中略)文章の構成も原著者が考えてくれる。翻訳者に必要なものは、文章力のなかでもごく一部にすぎない。しかし、必要な部分で要求される水準は、決して低くない。「原著者以上に文章の力がなくては」翻訳はできないのだ。(中略)
たとえばこう考えてみるといい。ゴースト・ライターになれる文章力があるかと。何を書くかは著者が考えてくれる。構成も著者が考える。著者が示した骨組みに肉付けして文章を仕上げればいい。(中略)こう考えたときに著者が喜んでくれる文章が書けるのであれば、翻訳ができるかもしれない。
149ページ
山岡洋一さんは、翻訳をするには日本語で文章を書く能力が非常に大事だとおっしゃってます。要するに翻訳は日本語で文章を書く仕事だからと。そのレベル感を例えた部分です。主に出版翻訳でのことと思いますが、文筆家並みに必要なわけです。
学校で「語学劣等感」をたたき込まれてさえいなければ、だれでも外国に暮らして数か月もすると言葉には不自由しなくなる。いまでは英語で伝えられる情報が氾濫しているので、海外には一度も行かなくても英語のシャワーを浴びつづけることが可能であり、やはり数か月もすると言葉に不自由しなくなる。
153ページ
翻訳を難しいと感じる一つの要因が、”語学が苦手だから”という文脈で語られた箇所です。でもこの主張は、根拠は無いでしょう。子供でも数か月では無理です。ましてや大人が英語圏に数か月住んだだけで、不自由なく英語が話せるようになるわけがない。筆者はそういう人に会ったことあるのでしょうか?ここは暴論だと思います。
翻訳学習者の多くは本気でプロを目指している。いい年をして、野球少年ほどにも世間を知らないように思えるのだ。
203ページ
長くなるので、引用したのはごく一部としました。出版翻訳者を目指して翻訳学校に通っている人が、沢山いる時世を皮肉った部分です。翻訳学校に通っている人数と出版翻訳で生計をたてている人の比率は、少年野球人口とプロ野球選手の比率と変わらないと指摘した上で、よっぽど努力しないとプロ野球選手になれないと野球少年は理解しているのに、翻訳学習者は相も変わらず本気でプロを目指していると指摘したものです。
それにしても、世間を知らないとは手厳しいですね。世間が翻訳のことを理解していないから、筆者もこの本を上梓しているなずなのに。
翻訳学校の企業努力は結局、翻訳学習層を下に広げる点でもっとも成功をおさめたといえるようだ。つまり、翻訳者になれるはずがない人たちまで受講生として集めることに成功したのだ。英語をほとんど読めない層、英語の本をほとんど読んだこともなく、日本語の本すらほとんど読んでいない層まで、翻訳学校の受講生にすることに成功した。
216ページ
さもありなんですねぇ。自分ももしかしてそうかも?自問し続けないとです。
三十歳をすぎて、学校に行けば教えてもらえると考えているようでは、翻訳はできない。翻訳者には、翻訳学校に行こうとは考えもしなかった人が多いが、翻訳という仕事の性格を考えれば、その方が正常なのだ。
224ページ
30歳どころか50歳を過ぎて翻訳学校に行こうと思っているのは私です。正常ではないことをしようとしているのが私です。
翻訳はたとえば、演奏に似ているともいえるし、演劇に似ているともいえる。音楽なら、作曲家が五線譜に書いた「原作」を、演奏家や歌手が音に「翻訳」して聴衆に届ける。
242ページ
この書籍では幾度となく、翻訳家は原著者が表現しようとしていることに思いを巡らす、、、旨のことが語られます。私は、それを読んでオーケストラの指揮者を思い出しました。以前、NHKの「らららクラシック」という番組で、指揮者の仕事が紹介されました。オーケストラとのリハーサルに臨むにあたり、指揮者は自宅の書斎(グランドピアノがでーんと真ん中にあり、壁一面が本棚)で、原曲の楽譜に向き合い曲を解釈するのです。必要あれば、作曲家の伝記や研究資料も読み込むそうです。翻訳者がやっていることは、指揮者に似ているなと考えていたところ、上記の記述がありました。我が意を得たりでした。
以上、翻訳の大家の著書に対し、未だ勉強すら本格的に始めていない輩が好き勝手なことを書きましたが、数年後も翻訳に絡んでいるようであれば、読み返してみたいと思います。
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50歳代後半の男性会社員です。一時実務翻訳の勉強をしいて、仕事を貰えるレベルにはなりましたが気が変わり方向転換。ブログのテーマも実務翻訳から英語学習全般に変更の方向です。詳しい自己紹介はこちら。
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